教会報 『さんいつ』 第9号(2016年4月)より

「知りません」「預言者です」「主よ、信じます」 ヨハネ 9:1-17より
平良愛香牧師


  

 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子達がイエスに尋ねる。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」この言葉の配慮のなさ。「誰かが罪を犯したからですか」ではない。「誰が罪を犯したからですか」という質問。病気や障害というものは、その人かその親が悪いことをした報いなのだ、という当時の考え方がもとにある。この質問は、悪者探しをしている質問でもある。一番の悪者は一体誰なのか、責任は誰にあるのか、そんな質問に聞こえて来る。まるで「自分たちは悪者ではない、正しい側にいる。さて悪者は誰だ」といって、悪者を探し追求することで、自分たちを正しい側の人間であるように自己正当化しようとしているように。

けれどイエスの答えは驚くものだった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。」そして、不思議な方法で目を癒す。癒しの奇跡だけを福音書は伝えようとしているのではない。弟子達が決めつけていた、「人の病や障害といった苦しみは、その人か親の罪の報いである」という考えを打破し、そこにいる人を、自分の好奇心や優越感を満足させるための道具として見ることを否定し、その人が一人の人間であるということに弟子達が、そしてその人自身もが気づく出来事が、そこで起きる。それこそが、神のわざが現れるということだった。

この目が見えなかった男性は、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」「その人だ」「いや違う、似ているだけだ」という近所の人々の会話に答える。「わたしがそうなのです。」自分を主張し始める男性。ただ「お前を癒したというイエスという人はどこにいるのか」、と尋ねられて答える。「知りません。」

やがて人々は、彼をファリサイ派の人々の所に連れて行った。そこでも本人を置きっぱなしにして、安息日には禁止されている医療行為をしたイエスが、罪人か神から来た者であるかどうか議論が始まる。人々はもう一度この男性に聴く。「目を開けてくれたということだが、いったいお前はあの人をどう思うのか。」「あの方は預言者です。」

このあと議論が続くが、彼にとってイエスが罪人であるかどうかは関係ない。あえて言えば、イエスが救い主であるかさえ問題ではない。ただ一つ「今は見えるということ」。そして尋問されていく中で、イエスが自分の目を開き、人間性を回復してくれた。その人こそ神から遣わされた人なのではないか、と語りだす。イエスが何者であるかは分からなくても、そこに強い信仰が現れてくる。そして、最後にイエスと再会したときに、「主よ、信じます」と告白し、ひざまづいてイエスを礼拝する。人々が気づけなかったメシア(救い主)としての主イエスが、すぐそばにおられたことに気づいた奇跡。一人の人間として私をとらえ、また私もそのメシアに従っていけるのだと気づいた奇跡。イエスをメシアと信じる、強くしなやかな信仰を与えられたいと思う。



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