教会報 『さんいつ』 第7号(2015年3月)より

「種まきの譬え?」 ルカ 8:4-15より
平良愛香牧師


  

 

種まきが種を蒔いた。ある種は道ばたに落ち、人に踏みつけられ、鳥に食べられた。ある種は石地に落ち、芽は出たが枯れた。ある種は茨の中に落ち、伸びることができなかった。ある種は良い土地に落ちて実を結び、100倍になった。それは、み言葉を聞いてもすぐにそれが奪い取られてしまう人、喜んで御言葉を受け入れるが、根がないために枯れてしまう人、しばらくは信じても試練にあうとダメになってしまう人、そして、100倍になったのは良く耐えて実を結んだ人たちのことである、と聖書には記してある。

 でも、待てよ。本当にイエスはそんな道徳的な話をしたかったのだろうか。この譬え話、イエスがたくさんの群衆に話したと書いてあるけど、譬え話の解き明かしは群衆がいなくなってから、弟子達にだけしかしていない。どうしてだろう。実は、最近の聖書学者たちは、この解き明かしはイエスが語ったことではなく、当時の解釈の一つをまるでイエスが語ったかのように書き加えている可能性がある、と指摘している。本当は、「良い子になりなさい」的な意味でイエスがこの話をしたのではないのかもしれない。ではこの話、イエスは人々に、何を語ったのだろう。

 当時のパレスチナでは、農業はかなり素朴なものだった。種は手で投げるように蒔きそれから地面を耕したので、道ばたや石地や茨の中にも種は落ち、そのために無駄も多かった。収穫は10倍ぐらいが平均で、100倍になれば奇跡的な大豊作。だからイエスのこの譬え話は、聞く人々にとっては夢のような物語でもある。そんな民衆はこの話を、無駄になった種を惜しむ、という話としては聞かないだろう。むしろ、たとえ無駄になった種があっても、それ以上の収穫がある、という収穫の先取りの喜びを、この物語から聞いたのではないだろうか。イエスは、良い地になりなさい、石地なんかになってはいけません、そんな道徳的な話をしたのでは決してなかったのだと思う。たとえ無駄だと思えても、必ず実を結ぶ。そんな嬉しい話、それが神の救い、神の国の実現だ、という話だった。

 現在「自己責任論」がインターネット上で飛び交っている。けれどイエスが言おうとした種まきの譬えは、「道に落ちた種は自己責任です。茨に落ちた種はダメな奴です。」という話ではなかった。神の国は、そんなことでは無駄にはならない、という譬えだったのではないだろうか。それは、批判や裁きや戒めではなく、喜びの宣言だった。イエスが最後に大声で言った「聞く耳のある者は聞きなさい」は、「分からんやつは、ダメな奴」という脅しではなく、「この話を聞いて理解した者よ、喜びなさい」という言葉だったのではないかな。そこにいる民衆たちが、一回聞いただけで喜びにあふれたイエスの譬え話。もしかしたら、伝統的な聖書解釈や、教会で語られる牧師の言葉のせいで正しくは伝わりにくくなっているかもしれない。けれど本来のイエスの言葉はもっとシンプルだったのだと思う。だからこそ、この譬え話を聞いた民衆と同じように、私たちも、聞いて喜ぶ者でありたいと思う。種まきの譬え。どんなに無駄が多いように思えても、神の国はもっとすばらしいよ。これがこの譬えの本来のメッセージだったのかもしれない。



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