教会報 『さんいつ』 第6号(2014年10月)より
全能じゃなかった神?
平良愛香牧師
中学生のころ、クリスチャンの友人たちとこんな疑問を語り合っていました。「神さまは、世界中の誰も持ち上げられないほどの大きくて重い石を作ることができるか。」「できる」とした場合、ではその石を、神さまは持ち上げることができるか。答えが「持ち上げられる」としたら、一つ目の問いはクリアできてないことになりますが、持ち上げられなかったとしたら、神は全能ではないということになる。
高校生になると疑問は進化しました。「なぜ戦争が起こるの?病気や飢餓や貧困で苦しんでいる人がいるのはなぜ? 神さまはどうして見過ごしているの?」これにはいくつかの答えを聞いてきました。「さまざまな困難を乗り越える力を神さまは与えてくださっている」「ちちんぷいぷいと神さまが解決してしまっては意味がない。人間同士で助け合って、道を切り開いていきなさいと神は言っているのだ」など。
でも疑問がピークに達したのは、大震災かもしれません。戦争なら「神ではなく人間の仕業」だと自分に言い聞かせられるかもしれない。でも地震や津波は人間のせいではありません。では地震も津波も神さまが起こしたの?あるいは神さまはそれをどうして止めなかったの?私には分かりません。誰にも分かりません。けれど一つだけ思うことがある。神さまは「止められるけど止めなかった」のではなく「止められなかった」のではないでしょうか。私たちが「全能の神さま」と祈るとき、もしかしたら神を「なんでもできる方」として人間本位に考えすぎているのかもしれない。そのせいで「神さまは、なんでもできるけど、今はなさらない」と解釈せざるを得なくなるのではないでしょうか。
20世紀のドイツの神学者、ドロテー・ゼレはこれまでキリスト教が語ってきた「全能=何でもできる神」という考えに疑問をもち、「人間の手しか持たない無力な神」という言葉を使いました。そのことにより、「お前は神の全能を否定するのか」と、世界中の神学者から袋だたきにあいました。けれど彼女の考えは、後の解放の神学に大きな影響を与えていきました。人間が「こうなったらいいな」と思ったり、祈ったりしているだけでは、神は動けない。人が動かなければ、神の意志は形にならないという考えです。その後、無力とまでは言わないけど、微力な神、と言い換える人たちも出てくる中で、神と人間との共同作業が一層実感できるようになってきました。もし「全能」というのが「何でもできるけど、人間のために、今はしないで見ている神」という意味なら、そうじゃないような気がするのです。ゼレやその後の神学者たちが言うように、神は私たちが想像していたような「全能」なのではなく、「神自身が泣きながら、苦しみもがきながらも、直接的な実力行使が出来ず、人間が動き出せるように、力とまなざしと愛を注ぎ続けている」ということなのかもしれません。イエスが周りから「自分を救えない」とあざけられつつ十字架につけられたことに、何かヒントがあるような気がするのです。