教会報 『さんいつ』 第5号(2014年3月)より

クリスマスは終わらない
平良愛香牧師


  過ぎ越しの祭りでエルサレム詣でに行っていたマリアとヨセフは、帰りの道中、12歳の息子イエスがいないことに気づいた。大慌てで同行の親戚や知人の中を探し回るが見つからない。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」(ルカ2:46)少年の聡明さに驚く人々と、自分たちを困らせたことに腹を立てる親。そりゃ怒るでしょう。
 ところがこの話のポイント(もちろん読む人によって異なっていいのですが)は、その後のイエスの返答にあるのではないかと思う。「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
 これは、「わたしが誰であるか知らないのですか」という以前に、「わたしイエスがどこにいるか知らないのですか」、「あなたはイエスをどこに捜しているのですか」という神学的あるいは内面的な問いかけでもある。実は、イエスが十字架で死んで3日後、墓場で泣く女たちが聞いた言葉も「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」という言葉だった。ルカ福音書の中には、羊飼いたちが赤ん坊のイエスを見つけた記述が最初にあるにもかかわらず、その誕生物語のすぐ後とイエスの復活の物語のすぐ後に、イエスを捜す人たちが(ある意味、間違った場所を探していた人たちが)登場している。それに対し、「どこを捜しているのか」「そこじゃないよ。ここだよ」と物語は示している。
 人々は神殿に詣で、聖書を読みながら、それが生きた神とつながることだと信じていた。しかしいつしか、抽象概念の神と、律法遵守に重きを置いてしまっていた。それに対し、イエスは「本当にそれでいいの?」という問いを、学者たちと語り合っていたのだと思う。イエスが生涯を通して語ったのは、良いことをすれば共にいてくださり、悪いことをすれば離れる、といった神ではなく、すべての人と共におられ、命がけで愛される神だった。あなたが見つける前から、神はあなたを見つけておられる。あなたが捜す前から、神は共におられる。あなたが神を見失ったと感じているその瞬間ですら、神はあなたを見失わないどころか、あなたをしっかり抱きしめているのだ。
 そのことを、主イエスの誕生は私たちに知らせてくれた。
クリスマスは12月25日だけの話ではない。また2000年前だけの話ではない。神がこの世に与えてくださったみ子イエス・キリストは今生きて語りかけておられる。
絶えず、「あなたはどこに私を捜しているのか」という問いかけをもって、イエスは私たちの前に現れておられる。




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