教会報 『さんいつ』 第4号(2013年10月)より

コソクリになろう
平良愛香牧師


  「あなたみたいなのが、クリスチャン?」と言われることがある。でも、「こんな私だからこそ、クリスチャンなんです。」と堂々と答えている人も知っている。清く正しく美しい品行方正な人がクリスチャンとしてふさわしい人、なのではなく、「こんな欠けの多い私でさえも、よしとし、愛してくださる神様を知った。その事実を受け入れて生きる決心をしたんです。」というのがクリスチャン。わたしみたいな人間でもクリスチャンでいていいという「でもクリスチャン=デモクリ」ではなく、「わたしみたいな人間こそ、神の愛を喜べるクリスチャンです。」と堂々言える「こそクリスチャン=コソクリ」でありたいと思う。
マタイによる福音書19章には、イエスが子どもを祝福する話と、金持ちの青年の話が出てくる。でも「子どものようにならなければならない」というのは、どういうこと?純粋無垢?そうではないだろう。子どもって結構残酷で、平気で人を傷つける。では大人とどう違うのか。大人は能力や業績でその人の価値をはかってしまう。神様の前でもどこか良い格好をしてしまう。ほめられたい。そのために点数稼ぎをしてしまう。まさに、金持ちの青年はそれをしに来た。「先生、永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。掟はみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
子どもは違う。どんなに能力や業績がなくても、自分が愛される存在であることを知っている。もちろん、自分の価値を認めてもらいたくて能力や努力をアピールする子もいる。とくに十分にかまってもらう機会の少なかった子どもにはその傾向があるかもしれない。それ自体はとても大きなテーマであるし、保育や児童教育の現場でそれを補うことの大切さもさらに強調されないといけないだろう。けれどイエスが伝えたかったことは、本来あるべき子どもの姿をお手本に、点数稼ぎをしなくても、神様が愛してくださっているということを信じ、ゆだねるというあり方だった。
金持ちの青年にはそれが理解できなかった。「無条件に神に愛されている」ということに気づけない。だからあえてイエスは無理なこと「すべてのものを売り払って貧しい人に施しなさい」と言って、価値観を問い直すことを促したのではないだろうか。一切の富を捨てて、清貧を生きることをイエスは要求しているのではなく、ただ「私は神に愛されている」そして、「私以外のあの一人一人も神に愛されている」その大きな事実を、無条件に受け入れること。そこから私たちの生き方が始まる。難しいだろうか・・・。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われるイエスの言葉に希望を見いだし、神の愛を喜べる「コソクリ」として歩みたい。




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