教会報 『さんいつ』 第3号(2013年月)より

簡単にゆるすな
平良愛香牧師


  聖書には「互いに赦し合いなさい」という言葉が何回も出てくる。もしかしたら、当時は何かトラブルがあると、それが些細なことだったとしても自分の正当性を押し通して、相手を赦そうとしない、というのがあたりまえだったのかもしれない。
幼稚園での子どものけんかでは、相手に打たれた回数と同じ回数打ち返さないと気がすまない。相手への報復が対価でなければ、自分の正当性を損なっている(不当性を認めることになる)と無意識に感じているらしい。大人から見るとちょっと滑稽でもある。
大人のけんかは、自分が正しい、相手が正しくない、という思いで始まる。戦争も同じ。神様から見たらきっととても滑稽なことだろう。ちゃんと話し合えば解決できるのに、と見ているに違いない。聖書の「互いに赦し合いなさい」というのは、子どものけんかを「どっちもどっちじゃん」という思いで大人が見ているような様子で、人同士のけんかを神が見ている、ということなのかもしれない。
  けれど「赦す」ってそんなに簡単にしていいのかな、と思わされることがある。いじめられている子が「僕はいじめられているけど、相手を赦すよ」と言ってしまったら、いじめはなくならない。むしろ固定化されてしまう。実際に虐待やハラスメントを受けながら「でも聖書に、赦し合いなさいと書いてあるから、相手を赦さなければならない」と言う人がいるなら、それは違う、と言わざるを得ない。

  沖縄の人たちは、「けんかするのも嫌だから、いじめられても我慢する。赦すよ」という立場を長く続けていた。しかしそれは解決ではないことに気づいた。きちんと怒ることの大切さ。「このままなら、あなたを赦しません」の大切さ。私をいじめないでください。私を踏みつけている間は、私はあなたを赦しません。その大切さ。
イエスの言った、小さい者をつまずかせる者は石臼を首にかけて海に投げ込まれたほうがいい(マルコ9:42)という言葉は、人の尊厳を踏みにじる存在を、神は赦さない、という強い警告でもある。神はいじめっ子も愛しているけど、弱い者いじめを赦しているわけではない。そして、神が赦さない、と言っているのだから、私たちも安易に赦してはならない。もちろん仲直りをする特別な力を神は与えてくれる。けれど、我慢をすることではなく、「私の生きる道をあなたに損なわせはしない」と訴える力こそが大切。神が一緒にいるからこそ、「私はあなたを簡単に赦さない」と言える。




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