教会報 『さんいつ』 第2号(2012年7月)より

キリスト教は絶対か?
平良愛香牧師


  大学の授業で、キリスト教がいかに過ちを犯してきたか、という話をかなりする。十字軍や魔女裁判などの「キリスト教の教えに反するやつは殺してしまえ」といった時代があったことや、キリスト教布教の名のもとに世界中に侵略していった話、近代以降も女性はこうあるべき、男性はこうあるべき、結婚はこうあるべき、家庭はこうあるべき、といった教えを強化し、実はとても差別的だったりするのに気づかなかったりする。
  そもそも聖書は、他民族を滅ぼすことをよしとしたり、病気も障がいもない「健康な」成人男性だけが神の前に出られる人間だとしていたり、子孫の繁栄こそが神の恵みだと考えられていたりする時代に書かれた。だから聖書を経典としているキリスト教は、よっぽど意識しないと現在でもそのような考え方を引きずってしまうことは否めない。昨年3月にアフリカのウガンダの国会で「同性愛者は処刑していい」という法案を出してきたのもクリスチャンだったらしい。世界的な反対運動が起こって、なんとか廃案にしたけど、近年ウガンダではクリスチャン人口が増えてきているなかで、とても保守的な考えが広がってきている。
  そんな話を授業ですると、いつも学生からこんな質問がくる。「そんな問題ありの宗教をどうして平良先生は信仰しつづけているのですか。」 さあ、みなさんだったらどう答えますか。
「キリスト教が正しい宗教だから信じている」そう答える人もいるだろう。でもそれはとても危うい答えではないかと思う。キリスト教は正しい、他の宗教は間違っている、ということはどうして分かるのか。キリスト教でそう教えているからというのでは答えにならない。他の宗教でも同じように言っているかもしれない。そもそも、「キリスト教」という名前で教えてきた教えの中には、前述したような排他的だったり差別的だったりする部分があるのに、どうして「正しい」と言いきれるのか。都合の悪い部分は目をつぶるのか、それとも「よく分からないけど、それも神さまの何らかのご計画だったに違いない」と正当化するのか。もしそうであれば、キリスト教って、とても危険な宗教だということになってしまう。だから私は「正しいから信じます」とは言えないなあ、と思っている。では、答えはどこに?
  それは、「私がイエス・キリストと出会って救われたから」ということに尽きるのではないだろうか。「私が、命を与えられていることを知った。私が、生きること、存在することを良しとされていることを知った。私が、愛されていることを知った。それがイエスキリストの教えだった。だから、私はその教えを信じる」と。
  ルカによる福音書8章に出てくるイエスの服に触れて癒された女性の話。12年出血の止まらなかった女性、本当に苦しかっただろうと思う。現在だったら医療で治ったかもしれないけど、当時は現在のような医学は発達していない。その中で彼女は全財産を使い果たしていた。肉体的にへとへとで、経済的にどんぞこで、しかも彼女は人々から避けられていた。出血は穢れだと考えられていたので、彼女は12年間穢れ続けている存在。おそらく彼女の病状を知っている人の中には、彼女を気の毒には思った人はいただろうけど、汚れた存在として、一定の距離を置き続けていたのだろう。親しい人の中には抱きしめてくれる人もいたかもしれないけど、その人は必ずあとで身を清めなければならない。それを知っている彼女はやっぱり孤独だった。社会から排他的に扱われる、そんな苦しみを12年間味わっていた。
  そんな彼女は、イエスが正しいから信じて近づいたのではなかったはず。ただ無我夢中で、この人しか自分を救ってくれない、もうほかに頼れるものはない、という中で、イエスに近づいていったのではないか。
  それも、後ろから近づく。直接面と向かって「助けて」といえないほどの苦しみ。これは彼女に、直接言い出す勇気がなかったのではなく、それほどまでに排除されていた存在であったということ。自分から言い出したら、「私に触るな」といわれるのが分かっていた。だから後ろから近づき、気づかれないように、しかし無我夢中でイエスの服の房に、衣のすそに触れた。これは勇気がなかったというより、むしろすごい勇気だったと思う。人ごみに入っていく勇気、途中で誰かに見つかれば、つまみ出されるだけでなく、「周りの人々を穢した」と恐ろしい目に合わされるかもしれない。また、イエスに触れたとき、ばれるかもしれない。どんなお叱りを受けるか、どんな裁きを受けるか。それでも、彼女はやってきた。私は、もうここにしか頼るものはない。
  イエスの答えは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」
ここを読むと涙が出そうになる。
イエスの救いは、決して排他的なものではない。むしろ社会から排他的に扱われていた人々に対する積極的な救いだった。抽象的な救いを与えたのではなく、体を癒し、孤独を癒し、人々との関係性を回復させる、そんな救いを与えた。排他的に扱われていたものが、排他的に扱われなくなった。だから「安心して行きなさい」と言える。それがイエスの教えであり、そのイエスをキリスト、救い主として信じるのがキリスト教となっていった。キリスト教というものが、イエスの教え、という意味であるならば、「わたしはキリスト教を信じます」と胸をはって言える。私を救ったこのイエスの教えは絶対です、と。
  「キリスト教」というと、神学とか伝統とか教会といった部分もある。それらは神のことを少しでもより知ろうとするために生まれたものだとは言えるけど、ともすると、「これが正しい」ということになってしまい、再び排他的になってしまったり、どうしても守りに入ってしまう部分も出てくる。キリスト教を守らないといけない、教会を守らないといけない、神学を守らないといけない。それは大切な部分もあるかもしれない。でも私たちが「正しい」と信じているのは、キリスト教、という完成されたものではなく、イエスの教えに近づこうとすることなのではないかと思う。
  大学で学生から「そんな問題ありの宗教をどうして平良先生は信仰しつづけているのですか。」と聞かれたとき、こう私は答えている。「私は『キリスト教』という宗教に救われたというよりも、イエスが共にいて下さる、わたしが自分を肯定できないときにすら、肯定してくださる方がいる、というイエスの教えで救われたので、その教えにとどまりたいと思っているんですよ。『キリスト教』という絶対的な宗教があるのではなく、いまキリスト教は、イエスの教えに、なお近づこうとしている成長途中の宗教なのではないだろうか。そこに期待したいと思っているんですよ。」と。




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