教会報 『さんいつ』 第1号(2011年10月)より

あんた嫌い。でも愛してる
平良愛香牧師


  「うち、あんたのこと大嫌いよ。でも愛してるから」一度そう言われたことがある。幼馴染のさゆりからだった。とってもびっくりした。そして、「この人は愛について、本当によく言いえてるなあ」と感動した。
  キリスト教って愛の宗教だと言われることがある。聖書にはやたら愛が出てくるし、互いに愛し合いなさい、ともよくいわれる。けれど一方、逆に「愛し合えだなんて偽善だ。まやかしだ。そんなことできるわけがない」という人もいる。嫌いな人間を好きになれるわけがないし、会ったこともない人間を愛せるわけがない、と。キリスト教の教えは、理想論であって、現実的ではない、と。でも、果たしてそうなのだろうか。
  昨年7月から8月にかけて、日韓の子どもたちによるNCC子ども平和会議2010が開催された。その準備中、「どうやったらみんなが仲良くなれるだろうか」とゲームなどを考えていたときのあるスタッフが言った。「仲良くならなくても別にいいじゃん」。一同びっくり!でもその人の言葉は「仲良くなることを否定」ではなかった。もっと大切なことがあることに気づかせてくれた。それは、「仲良くなれなくても、一緒に生きている大切な仲間である」ということ。仲良くなるに越したことは無い。でも仲良くなるのが最終目的だろうか。仲良くなれなかったらアウトなんだろうか?そもそも本当に世界中の人と仲良くなんてなれるのか?はっきり言って無理。人数が多すぎるということもあるけど、それ以前にどうしても仲良くなれない人っていうのが出てくる。大人になるほど増えるかもしれない。でもそれは仕方がない。すべて理解しあうなんて無理だし、そもそも人間はみんな違うのだから、波長が合わない人もいる。でも大切なことは、「仲良くなれなくても、一緒に生きている大切な仲間であること」。
  聖書に書いてある「互いに愛し合いなさい」というのは「仲良くしなさい」ということとはちょっと違う気がする。さゆりの言った「大嫌い、だけど愛している」というのはまさに、「あなたのこと大切だと認めている」という宣言だった。だからこそインパクトがあったのだと思う。愛するというのは仲良くなることではなく、大切だと認めること。それこそイエスが実践し、また命じてくれたことだろうと思う。そして、「それならあなたにも出来るはずだ。なぜなら私があなたを愛しているのだから」と聖書は語る。人を愛せないとき、わたしは神に愛されていることを思い出す。自分を愛せないとき、わたしは絶対的な存在が私を「大切だ」と肯定してくれていることを思い出す。「もっと自分を愛してもいいよ」「あなたは他者を愛することができるのだよ」「わたしがあなたを愛したのだから」「好きにならなくてもいい。ただ愛しなさい。」それこそ、私たちに与えられた最高にうれしい戒めであり、私たちに与えられた、もっとも力強い、約束であると思う。




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